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深澤
たとえば天井から下がった照明器具のケーブルがちょっと太いとかいう、みんなが生活の中で潜在的に気にかかっているエラーを見つけ出し、今までに変わらなかったスタンダードを頑張って修正するのです。最初は「なんだ、全然変わっていない」とか言われるかもしれませんが、比べてみると「ああ、良くなっている!」という感じがわかってくる。そうすると、もう元の太いケーブルには絶対戻れないのです。その微妙な違いは「あまり変わらないから前のままでいい」とはならないのです。全員が共有している潜在的な引っかかり、自分さえあまり気付いてなかった思いをすくいあげるということが、より良いデザインを成すのだと思います。
変なたとえですが、人の顔も「あの人は美人、あるいは美男子だな」と思いつつ、「もう少しここがこうだったら、完璧なのに」というように、みんな同じ小さな破綻部位に気付く(笑)。それはもう完璧が見えているということなのです。9割完成していてどこかが破綻していると、人の意識はそこに集中するのです。ですから、たくさんの人がどうでもいいと思うくらいの小さな破綻が、実は大きいのです。世界を変えるのは、ちょっと変えればいい。それが劇的に変わるのです。だから、それを探し出す。
深澤
現実に起きている事実を経営者とともに受け止め、そのリアルを共有することから始めます。その上で問題をどのように具体的に解決したらよいかのアイデアをリアライズし、お互いが納得した上で実行に移します。問題点をビジュアライズすることはアイデアを得たことと同じです。わかっていそうで知りたくない真実に飛躍のカギが潜んでいます。
企業の未来も製品が必然的に向かっていく姿と同期していなければなりませんから、企業の利潤を目的にするよりも、社会がどのように進んでいくかを見極め、自然に進んでいく方向に逆らわず、社会全体の中である部分のパートを受け持った責任として、ものづくりを行っていくようにアドバイスしています。
リアルを見てもらうために、生活を背景にして、「これは正しいものです。これは調和が破綻したものです。どうですか?」と聞くようにしています。そうすると当然「正しい方がいい」とみなさんおっしゃいます。その差を理解した上で適正な答えの方へ導くためには、問題の解決策を一緒に考えていく姿勢が必要です。デザインを考えるということはその小さな行為の中に、社会性、経営や組織、技術、流通、コミュニケーションなどのすべてが関わってきます。デザインがちょっと変わったということは、それを生み出す企業が大きく変わったと同じことなのです。ひいては社会も大きく変わっていくきっかけになるのです。
最初から大きく何かを変えようとしてもなかなかその変革に踏み出せませんから、小さく変えてみて、その結果がよければ、それをきっかけに世界が変わることを納得してもらえます。小さなデザインで大きな社会の価値観を変えることができると思っています。
深澤
そうですね。周りの生活や状況から割り出しているわけですから、その輪郭はいくつもないはずです。その状況において「これが一番合っている」となるわけなので、いくつもプランがあったらおかしいのです。 最初に「これはこれで合ってますよね?」「ああ、合ってますね」「じゃあ作ってみましょうか」というやりとりがあって、やってみたらやはりズレがある場合も、もちろんあります。その場合は、修正してズレが直せればいいし、修正したら、ものもアイデアも崩れてしまうような場合は捨ててしまうこともあります。9割完成していたとして、それでもいいから出そうとはしません。それは「もうやめましょう」ともちかけます。
深澤
「THE OUTLINE」というのは「輪郭」という意味です。僕は過去に『デザインの輪郭』という本を書いたのですが、自分の中の概念として「みんなが無意識に見ている、あるいは思い描いているのに見えていない、わからない輪郭を導きだす」というデザインに対するイメージがあって、その「どういうふうに導きだすのか」ということが興味の対象として面白いのではないかと思っていたのです。
それと、一般的にものの写真というのは、はっきりとそこにある実像を「わからせる」ことだと思っている。たとえば「フォーカスが合ってない」ことを「ピンボケ」と言って悪い写真になってしまう。藤井さんの写真は、いつも周りの空気や光に溶け込んで対象物が写り込んでいるから、ある意味、輪郭があまりはっきりしない。でも、よく考えてみると、そのほうがリアルなんです。人間はあるポイントにフォーカスすると、他の部分は見えてないもの。だから、彼の撮ってる写真のほうが、一般的に思い込んでいる世界よりもリアルだということを知って衝撃を受けました。
藤井さんの写真に写っている「輪郭」はビジュアルとしての輪郭、実際のものです。僕のデザインの「輪郭」は生活の中の人間の記憶とかいろいろなものですから「輪郭を割り出す」という感じがあります。そんなふたつの意味合いを含んでタイトルにしたわけです。
ホンダの創業者、本田宗一郎氏はある日、あっさりと代表の座を降りた。
その後、彼は全国行脚の旅に出る。
全国のホンダの営業所、工場を訪れ社員一人一人に挨拶し、握手を交わしたいと言い出したのだ。
それが社長を辞める際の彼の唯一の願いだった。
飛行機、車、新幹線を乗り継いで彼は全国どころか外国も含め、1年半ですべてを回りきった。
ある工場で宗一郎氏と握手する前に急いで走り去ろうとするものがいた。
「どうした?」
そう呼び止めると
「手が汚れているから」
と油で真っ黒になった手を隠しながらもぞもぞしている。
だが宗一郎は、
「いいんだよ、それでいいんだ」
と彼の真っ黒な手を握り締めた。
「働いている手じゃないか、立派な手だ。俺はこういう手が一番好きだ」
そういいながら涙ぐむ宗一郎氏と一緒に社員も涙を流した。
『バガボンド』を筆で描きはじめた頃の話。
練習期間はなし。いきなり本番で試した。主線はすべて面相筆でペン入れならぬ「筆入れ」をする。初回はまったくイメージ通りに描けず、ファンからは作画のレベルが下がったと評された。しかし井上自身は筆でうまく線を引けるようになれば、狙った効果が出せるという確信を得たという。ハードはソフトを規定する。例えばポータブルプレイヤーの出現が音楽の聴き方を変え、やがて楽曲の形式にさえ影響を及ぼしたように、道具の変化は井上の作品に本質的な変化を引き起こす引き金となった。
「やっぱりペンは”コントロール下のもの”なんです。ここしかないという、絶対的に正しい位置に線を引くためのもの。でも筆はもっとルーズで許されるというか、いろいろな意味で幅を許容してくれる。そうするとストーリーもユルいものになるような気がします。もともと僕は”ストーリーなんかなくたっていいじゃないか”というところがありますし(笑)、物語展開の妙みたいなものよりも、”今”を切り取るような物語、プロセスの連続でもいいんじゃないかという意識がより強くなってきています」
筆に持ち替えた当初は、描き込みもさほど稠密(ちゅうみつ)ではなかった。というより、まだ稠密には描けなかった、というべきだろう。そのため不慣れな道具を使いながらも、ペンによる作画より短時間で仕上げることができた。ところが筆という道具が自分のものになってくると、今度はペン以上に描き込みが増え、作業量は増加の一途を辿る。『SLAM DUNK』連載時には決して破ったことのない締め切りを一度ならずも破り、休載やむなし、という憂き目にも遭った。
○かわいいの成分
向こうからやってくる犬を見てかわいい……。セレクトショップに並んだワンピースのパフスリーブをつまんでかわいい……。人のお化粧見てかわいい……、本の表紙を見てかわいい……。
もちろんかわいい、とつぶやくだけで生きていくことは困難ですが、一日を生きていておよそ「かわいい」感度が起動しない日はなく、心の動くところには常に「かわいい」が待機している日本です。女性です(むろん、例外もあります)。
かっこいい、素敵、あなたはどう思う? 欲しい! きれい、目指すぜ!などなどの感嘆や同調、さらには意思表明まで、感慨全般を一語にまとめたものが「かわいい」であって、とくに女性同士ならば「かわいい」によってまさに「一を聞いて十を知る」という状態なのであって、頼もしいことです。
これを聞いて「いや、それはボキャブラリーのまさしく衰退」と憂いたい人もいるだろうし、じっさい「なんでもかわいいで済ますな!ちゃんと説明せよ!」みたいなことを(主に男性に)言われたこともあるけれど、説明が必要なときはちゃんと説明するので放っておいてもらいたい。言葉というのは何も全方位に複雑になるだけが能ではなくて大事なのは「かわいい」に込められた感情の多さをいかに端的に意思疎通に適した言葉に変換しているかという点であって、これはある意味で言葉の洗練ともいえるのではないかと、街行く人々の「かわいい」をキャッチするたびに「ああ今、言葉がとても機能しているな」とちょっと満足してしまう。
かつて三島由起夫の書いた「金閣寺」の主人公は「美しすぎる……」という、小説だから当然ですが恥ずかしいくらいに文学的な動機で金閣寺を焼いてしまいましたが、21世紀の女子が使用するほとんどの「かわいい」はいたずらに狂わない程度の「美しさ」もある程度に継承しつつ、なおかつ人様に莫大な迷惑をかける幻想の入る余地のない、生活と自立に支えられた「万能語」です。
まあいつか「かわいすぎる……」が動機で文学的な凶悪事件が起きないとも限りませんが、しかしそれは可能性という意味では何だってそうなのだから、そのときはそのときで考えましょう。
川上 未映子(かわかみ みえこ)
1976年8月29日大阪府生まれ。作家・ミュージシャン。
ミュージシャンとして『夢みる機械』(2004年)、『頭の中と世界の結婚』(2005年)など3枚のシングルと3枚のアルバムをビクターエンタテインメントより発表。 2006年随筆集『そら頭はでかいです、世界がすこんと入ります』をヒヨコ舎より刊行。 2007年初めての中編小説 「わたくし率 イン 歯ー、または世界」(『早稲田文学0』)を発表、第137回芥川賞候補となる。同年第1回坪内逍遥賞奨励賞を受賞。 2008年『乳と卵』で第138回芥川龍之介賞を受賞。 2009年9月に『ヘヴン』(文藝春秋)を発表。
茂木健一郎の「超一流の仕事脳」
「バガボンド」を生み出した“根っこ”
たとえば、もし「SLAM DUNK」をあそこで終わらせないで、営業側や編集側、読者の要請などで引き延ばしていたら、やはり違う作品になっていたのだと思う。そういう作品はたくさんある。あるいは、「SLAM DUNK」があんなにヒットしたのだから、次回作も学園スポーツもので行きましょうという要請に従っていたら「バガボンド」は生まれていなかった。
「正直であること」の姿勢を貫けば、最初は反対されてもそのうち「周りがあきらめる」と井上さんは言う。あの人はそういう人だからしょうがないと。クオリティを保つためのロジックがあって、それに照らして無理があるなら、「仕方がない」といってあきらめさせるような人との付き合い方が大事なのだ。それは仕事のやり方としては1つの理想形である。
今回、井上さんのお話をうかがって、「求道者精神」というのは、日本文化の偉大な伝統の1つだと感じた。道を究めるということがなぜ日本人はこんなにも好きなのだろうか。どうして好き好んで苦労して道を究めようとするのか。それは「巨人の星」をはじめとする“スポコン”ものもそうだし、「包丁人味平」や「男一匹ガキ大将」などでもそうだ。それは功利主義ではない生き方とも言える。そこに日本人のアイデンティティが潜んでいるのだと思う。
NHK プロフェッショナル 仕事の流儀
「闘いの螺旋(らせん)、いまだ終わらず」 漫画家・井上雄彦
漫画界の孤高の天才・井上雄彦(42)。バスケットボールを題材に高校生の成長をみずみずしく描いた「スラムダンク」は、累計発行部数1億4千万部を超え、23の国と地域で読み継がれる。連載11年目を迎えた「バガボンド」は吉川英治の「宮本武蔵」を原作にして、“生きること”の意義を問いかけ、幅広い世代から熱狂的な支持を集める。今や、井上は“漫画”の枠を超えたカリスマである。
井上の飽くなき創作活動を支えているのは、「手に負えないことをやる」という信念だ。例えば、「バガボンド」の連載途中から、井上は、漫画の作画で一般的に用いられるGペンをおき、毛筆を使い始めた。筆はGペンに比べて柔らかいため、予想外の動きが生じ易く、扱いが格段に難しい。だが、その筆を使うからこそ、命の宿った描線が描けるという。その描写力は、漫画界の最高峰とも言われる。
井上は、今回、ディレクターが小型カメラを手に撮影することを条件に取材を了承。1年にわたる長期密着取材が初めて実現した。番組では「バガボンド」最終章へと向かう道のりに焦点を当て、井上がこれまで物語の世界で生き続けてきた登場人物たちの“人生”にどう決着をつけるのかを見つめる。カメラが目の当たりにしたのは、もがきながら、必死に登場人物とむきあう、井上の孤独な格闘の日々。極限まで自らの感覚を研ぎ澄まし、それぞれのキャラクターの心情へと迫っていく緊迫の現場から、稀代の漫画家・井上雄彦の真実を活写する。さらに、井上のこれまでの知られざる歩み、「スラムダンク」の誕生秘話、「バガボンド」連載6年目に1年にわたり連載休載に陥った、最大の苦境についても、掘り起こしていく。孤高の天才の真実に迫る、1時間スペシャル。
茂木健一郎の「超一流の仕事脳」
「バガボンド」を生み出した“根っこ”
漫画家・井上雄彦
2009年9月15日
今回、漫画家の井上雄彦さんにお話を伺って、「SLAM DUNK」にしても「バガボンド」にしても、クオリティが高くてしかも人気も得ているという現象の秘密がどこにあるのかが理解できた。
作品作りのなかで井上さんがもっとも苦労されるのは、「ネーム」と呼ばれるコマ割りやセリフなどを含めた全体構成を考える時だという。作品の成否を決めるのは絵のうまさでもなく、ストーリーの良さやキャラクターの立ちかたでもない。もっと総合的なものである。マンガの場合、それがネームであり、ネームができると1つの作品が出来たということだ。それと同じようなことは、ほかのいろいろな仕事でもあるのではないだろうか。
ネームを作る時に「自分の内面を奥を掘り下げていって、“根っこ”にぶつかると、それは必ずいろんな人に通じる普遍的なものである」と、井上さんは言う。だからこそ、井上さんの本は1億冊以上売れているのだが、大切なことは、その根っこに行き着くためには、格好をつけていたり、意気がっていたり、中途半端なところに留まっていたのは駄目で、裸にならなければならないという。これはすべてのクリエーターや表現者が肝に銘じなければならないことだと共感した。
「バガボンド」は、戦国時代を背景に描いていながら、実は現代を描いているのだと井上さんは言う。登場する宮本武蔵にしろ、佐々木小次郎にしろ、あれは現代の若者である。多くの人の心を動かすものを生み出すにはどうすれば良いのかを考えるうえで、そこには現代の感覚が投影されていなければならない。その創造性論はとても本質的なことだと思った。
吉川英治の原作があるとはいえ、「バガボンド」は感覚が違う。時代の風俗やトレンドという意味で、「バガボンド」は登場したとき以来、ずっと時代の気分の先端に位置している。その感覚があるからこそ、若者たちも読む。作品における「感覚とは何か」というのは、脳科学的にはまだ研究が十分に進んでいないのだが、例えばマンガの場合、コマ割りであり絵である。井上さんの場合、それが自分の内部に確かに存在していて、それ追いかけながら作品を作っているのだと強く感じた。
また、商業主義の中で仕事をしている以上、どうしても締め切りや世の中のしがらみなどで、内容がいろいろと規定されてしまうのは仕方のないことだが、そういうなかにあっても作者として「正直であること」が大事だと井上さんはおっしゃっていた。